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ゴダールの探偵
G- 字幕
ジャン=リュック・ゴダール監督の探偵映画。とはいえ推理ものではなく登場人物の人間模様を中心に描いたドラマである。部分的にメロドラマ風になったり突然コメディタッチに変わったりとする風変わりな映画。ジャン=ピエール・レオが時折コミカルな演技を披露している。また無名時代のステファーヌ・フェラーラ(当時はステファン)と15歳だったジュリー・デルピーも出演している。
詳細情報
- ジャンル
- 洋画
- サブジャンル
- クライム・犯罪
- サービス
- StudioCanal
- 原題
- DETECTIVE
- 音声言語
- フランス語
- 字幕言語
- 日本語
- 制作年
- 1985
- 制作国
- フランス
- 公開開始日
- 2020-11-13 10:00:00
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クライム・犯罪洋画ランキング
183
256
-
3.9
「ゴダールのマリア」は資金不足で頓挫したため、急遽できた映画が今作品。そんな渋々つくった作品だからか、ある意味のびのびしていて挑発的だった。「ゴダールのマリア」にはない雑味や違和感盛りだくさん&物語もかなりわかりずらい(というかわからなかった)。やっつけだからこそ逆に面白い笑。そしてもっとやっつけになるのが次回作の「ゴダールのリア王」だと思うと、腑に落ちる笑。
音と映像の編集の正しさとは?映像とは、つまり何をどうしたってつながってしまう。今作品の編集は既存の繋げ方をより意図的に破綻させにかかっている。そこで顔のアップになる?そこなんでそのカット?と映画審査員が言いそうなことをついつい思ってしまう。そこできっとこの映画は、「逆に正しい繋ぎ方があるのかい?」と挑発するかのよう(DVD付属の黒沢清の解説が的を射ていて面白い)。今作品の後に「ゴダールのリア王」がつくられ、そこでは映像の無限接続可能性についてゴダール自身が現れて語り、そして壮大な「映画史」が生まれるのだ。
探偵物語ということで、意図的に謎の追求を促している。しかし、それはもはやタイトル止まりであり、観ただけでは誰が誰かを把握することすら大変である。それでいて謎に伏線めいた描写、妙に音楽が盛り上がったりして映像を強調するので油断できない。つまり大枠は全く追えないのだ。だから私たちはそのショット単位のディティールに注目する。他の映画とは違うショット単位で重点が置かれた映画なのだ。もし見るならば、この映画は筋ではなくディティールであるのだ。
そのショットごとの構図。この頃のゴダールのカメラはほとんど動かない。代わりに、その構図内で人物がひっきりなしに動き、しゃべる。普通の映画がカットを割るのに対し、彼はむしろその構図内で済ましてしまおうとする。前景後景で違うことが起き、会話は錯綜するし全て把握できぬままカットも唐突にかかる。しかも映り込みや鏡が作中何度も映り、それらの虚像と実像どちらに焦点を当てていいのか混乱する。さらにあるカットではその写り込みにまんまカメラが映ったりする(いたずらっ子みたいな茶目っ気だと割り切るのも大事)。まぁ優しくない映画とも言えるが、こういった錯綜や混沌に身を置ける体験はこの監督しかいないなと思う。
時制の混乱。明らかに同じカットだがテイク違いのものを使って2度同じ動きが繰り返される。今作品にはつまり直線だけで過去も現在も曖昧な直線の時間しかない。それもカットの使い回しなのか、そうした出来事が2回起きたことを示すのか、それもわからない。
変な人々。ジャン・ピエール・レオー演じるコメディタッチに描かれる刑事。彼女とイチャイチャするボクサーと脱ぎまくるその彼女。クラリネットを吹く姿があどけないジュリー・デルピー演じる女性(誰?)。コンピューターじいちゃん(誰?)。借金を抱えた倦怠夫婦。マフィア(「甘い生活」に出てた友人役の人でびっくり!)。ただでさえ変な編集なのにキャラも変。関係も不明瞭。というか、探偵は誰なのこれ?
クラシックの使われ方。乱雑に使い込まれるショパン、コールマン、リスト、シューベルト、ワーグナーその他。それも一曲丸々流れることはなく、ある一部分のみが、破壊的に使われる。音楽というよりSEに近い。こんだけズタズタにクラシックを使ってもいいんだと思って感心した。
印象的。とにかく音の使い方が独特。OPクレジットいつまで挟むのか。あとはシャンデリア、ビリヤードの玉のカットが妙に印象的。あとホテルの部屋番号がひっくり返るところも。またライターの火で照らしあうお互いの姿も。印象だけは強い。「これがわかりやすい映画だ!」となんかの映画のカットが抜粋されていたが、何の引用だったのか。それとどこがわかりやすいのか! -
3.7
なんだろう、いつものゴダールっぽくない!!
私の中で「ゴダールらしさ」とは、バッキバキにキマってる色彩とか、ハッとするような音の使い方とか、映画を構成するすべてを思いのままに操る編集能力(コラージュ)だと勝手に思っているんだけど、そういった演出があんまりない。
プロットに関しても、ゴダール作品の中ではかなり分かりやすいのではないでしょうか…?
でも完全に「ゴダールらしさ」がないわけではなくて、素晴らしいタイポグラフィとかやっぱりゴダールだなと思わせる。
なのでこの作品は、ゴダールに影響受けまくった監督が撮った商業映画という感じがある…
「ゴダールらしさ」がないとスケベおじさんな一面が露骨に出てきちゃうというか…
色々なモチーフが卑猥に感じられてくる。
とはいえ40歳のジャン=ピエール・レオーがコミックリリーフとして登場するから笑顔になってしまいましたわ…🤗
中年になってお腹出ていても可愛い人ってレオーくらいじゃないですか??
声が可愛すぎる。あの絶妙に高い声なんて天使じゃん。
沢山の中年男性が出てくる中で、ずば抜けて可愛い&かっこいい。
序盤のバルコニーに立ってるシーンとか本当かっこいい。
探偵役で色々なコスチューム姿を見せてくれるとんでもない映画。
しかも前髪かきあげが2回も見れるご褒美付き。
私もレオーと一緒に探偵事務所で働きたいです…
-
3.4
おなじみのゴダール的手法が(ほぼ)なりをひそめた、フイルム・ノアールもどきの一本。
パリのホテルを舞台に、航空会社の女社長とパイロットの夫妻、ボクシングのプロモーターとボクサー、それにマフィアなどが絡みあって、比較的見通しのよいものがたりが展開する。
だが「探偵」が「単純な事件だった」言うように、そこにえがかれるものがたりに意味などなく、浮びあがってくるのは心理的な関係性のスケッチだけ。
見えるはずのないその内面は、わたしたちに「推理」し「解釈」することを要求する。
なんでもデータを分析するコンピューターが二度「答えたくない」と回答するのは、コンピューターは「解釈」しないからか。
シャン=ピエール・レオ演じる探偵の、幕間劇のピエロのごとき軽妙な狂言回しが絶妙。
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−−
露骨に笑えるとこもあるから他の微妙なラインのシーンで笑っていいのかダメなのかわからなくて不思議な気分になれるこの感じフランス映画だなって思う。あの低音のピアノが印象的。
ストーリーがさっぱり意味不明でも満足できるのは他に美しさが詰まってるからなんだろうけどなにせゴダール初心者すぎて語れないの悔しいからとりあえずたくさん観ます〜 -
3.2
80年代ゴダール。物語の意味もわからずに、独特の画面構成とお洒落なショット、意味ありげで実は他愛のない会話、そういったものがとにかく「イケてる」ものなんだと自分に言い聞かせながら見た厨二の頃ww
いま見てみると、こういった映像は確かに面白いのだけれど難点として出てくるのがカメラの存在。これどこにカメラ置いて撮ってるんだろう、と思ってしまうと、もう画面に映っていないものまで見えてしまい、挙句にこの人はいま役者が演じているんだという認識で見てしまう。
つまり最近流行の「没入感」がまるでなく、自分も撮影側の一員のような錯覚さえしてしまうのである。もはやそれは自分の中で映画としては崩壊が始まった状態と言ってもいい。
この作品では特にアップを多用して意図的に画角を狭くした演出が随所に見られ、それが逆効果になっているようにも思えた。
ひとつひとつの画の力強さ、巧みなストーリーテリングはさすがのこなしなのだけれど、やはり映画というのは自然に入り込んでその世界を体験出来るようなものが自分の好みなのだなと再認識。かといって、これを見て自分もホテルの住人の一員としてパリジャンにでもなった気分になってしまうのも、それはそれで危ないがw -
4.5
公開から35年、齢(よわい)を超えた今、ついに解禁しました。
ジャン=リュック・ゴダール
『ゴダールの探偵』
映画を選ぶ際、世評などほとんど気にせぬ私ですが、ついつい及び腰になってしまった映画も数多(あまた)あります。
『ゴダールの探偵』もさしずめそんな一本。
そんな映画の中には(公開当時に観ておけば良かった)と思わせてくれる作品も実は結構少なくはないのですが、この『ゴダールの探偵』だけは齢(よわい)を超えた今、初めて接して本当に良かったと思う。
18、9のガキの頃に観てたら、この落ち着きない気随気ままに飛び交う原子核の粒子のような(群れ渦)に巻き込まれ収拾がつかなくなっていたに違いないからです。
パリの一流ホテル、コンコルド・サン・ラザールに集約されたこの宇宙。
どこからともなくやって来ては、どこからともなく去っていきそうな、およそとどまる事を知らぬこの粒子たちの動きは、一見騒然としているだけのようで実は光と闇の配分が絶妙に、整然と組成されています。
パリの眺望がききすぎる部屋から2年にもわたって張り込みを続けている探偵ローラン・テルズィエフ、現職刑事ジャン=ピエール・レオとその恋人オーレル・ドアザンや、孫娘の手を引きながら階段を上がるマフィアのボス、アラン・キュニー。
またホテルロビーでは、誰がどう見ても不釣り合いな美貌の女実業家のナタリー・バイと冴えないパイロットの夫クロード・プラッスール。
ボクサーのステファン・フェラーラからそのプロモーターのジョニー・アリディに至るまで。
そんな賑やかな粒子の顔ぶれは、停止したかに思える瞬間があってものべつ動いている。
動く事こそが本質で、課せられた使命であるかのように。
419号室の9が何かの拍子で右180度に落ちて6に変わった途端、その動きに変化がもたらされます。
変化は周知の通り負債者と資産家として追うものと追われるものとの明暗をくっきり際立たせます。
ところが、時にはそんな明暗が互いに申し合わせたかのように手を取り合って回転する。いわゆるグランドホテルスタイルお約束の不貞の恋仲が生じる次第。
回転は幸福と不幸を結びつけます。こんな時に泣きを見る者は必ず現れます。
そこに八百長試合の算段やマフィアの追い込みなどが多重に重なれば悲劇と喜劇を同一平面上に並べてほくそ笑むしかありません。
事の顛末などと言えるものは一切ないのですから。
したがって何かを得る事を望むのはとても愚かしい。何かを失う事を嘆き悲しむのももっと愚かしい。というゴダールの声に、今の私なら真剣に耳を傾けられる気がするのです。
ゴダールが何故、本作をカサヴェテスとイーストウッドに捧げたのかを詮索する以前に、この粒子の飛び交いを愉しめるようになったのは老化ではなく、若返りである、と今では心底感じるのです。
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−−
金、愛、それぞれの目的でホテルを舞台に動く登場人物。情報量が多く筋があるのか曖昧。印象的なのはクラシックをと言われてジャズを弾くピアニスト。左右に触れる音響、断続する激情的なクラシックが心地良い。
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4.0
ジャン・ピエール・レオーが可笑しい。
特に力が入ってなさそうでもカッコいい画面になっちゃうっていうのは何なんでしょう。
ジュリー・デルピー可愛い -
3.8
予告編の方が真っ当にフィルム・ノワールなゴダールによる探偵/マフィア/ボクシング/プロモーター/ホテル/本/カメラ/テレビ/男と女/裸体/セックス/拳銃/撃ち合い/そしてとってつけた謎解きの映画。ジャン=ピエール・レオが刑事に扮し、贅沢に撮られたホテル内を変装して走り回る。
感覚としていちばん近いのはフリッツ・ラング『怪人マブゼ博士』(1960)。遺作の方。
ステファヌ・フェラーラがエマニュエル・セニエの乳房をスピードバッグに見たてて叩くふりをする動作を見て、ゴダールはつくづく生臭いオッサンだなって思いました。 -
5.0
たとえばホークスのユーモアは俺にはちょっと高級すぎて自然に笑えないところがあるが、これなら最初からすごくよくわかる。
どこを取っても面白いが、ひとつ挙げるなら、レストランで借金の話をしているとき、隣の席で互いの舌を舐め合う老夫婦が映り、それからそれを無表情のままチラッと見る男が映る。ごく単純化して言えば、ゴダールのすばらしさはこういうところだと思う。
我々が見るべきなのは、ほかに何もなくただひたすらに楽しい、この映画のような映画ではないだろうか?
(Filmarksへ)