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ビフォア・ザ・レイン

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  • 字幕

―何故ヒトは殺し合うのか。轟く銃声、飛び交う銃弾。 降りしきる血の雨は、神の流した涙の雨か。ヴェネチア10冠&アカデミー賞ノミネート作、新規2Kマスター化。

『ビフォア・ザ・レイン』は三部で構成されている。そしてそれらは、舞台をマケドニアからロンドンへ、さらにもう一度マケドニアへと巧みに移動し、登場人物を交錯させ、微妙に繋がりながら最後には映画全体がメビウスの輪の如くねじれた循環構造になっている。■第一部「言葉」…マケドニアの美しい山岳地帯。まるで歴史に取り残されたかのように佇む修道院で、沈黙の修行を守る若い僧キリル(グレゴワール・コラン)と、マケドニア人戦闘部隊に追われこの修道院に逃げ込んだ敵対民族アルバニア人少女ザミラ(ラビナ・ミテフスカ)の恋。民俗の宗教も言葉も異なる二人の恋の行方は悲劇を予感させる。■第二部「顔」…ロンドンの出版社で働く女性編集者アン(カトリン・カートリッジ)の気持ちは、マケドニア出身の世界的戦場キャメラマンで愛人のアレックス(レード・セルベッジア)と、愛してはいるが退屈な夫との間で揺れている。夫の子どもを妊娠しているアンだが、愛人からの一緒に故郷マケドニアに帰ろうとの誘いに悩んだ末、夫に離婚を切り出す。そこで突然凄惨な事件が起こる…■第三部「写真」…マケドニア出身の世界的戦場キャメラマンのアレックス(レード・セルベッジア)は、ロンドンでの生活も地位も名誉も捨てて故郷の村へと帰るが、そこは民族紛争で荒れ果て、人々は皆銃で武装していた。ある日アレックスの従弟がアルバニア人に殺される。殺したのはアレックスの初恋のアルバニア人女性の娘ザミラ(ラビナ・ミテフスカ)だった。復讐の火蓋が切って落とされるなか、アレックスの取った行動とは…

詳細情報

関連情報
製作:ジュディ・コーニハン|セドミル・コラル|キャット・ヴィリアーズ 共同製作:フレデリック・デュマス=ザッデラ|マルク・バシェット 撮影:マニュエル・テラン 編集:ニコラス・ガスター 音楽:アナスタシア
音声言語
英語/マケドニア語/アルバニア語
字幕言語
日本語
制作年
1994
制作国
イギリス/フランス/マケドニア合作
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公開開始日
2021-10-13 10:00:00
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ビフォア・ザ・レインの評価・レビュー

3.8
観た人
747
観たい人
1305
  • 5.0

    Jeffreyさん2021/10/22 06:16

    「ビフォア・ザ・レイン」

    〜最初に一言、大傑作。私はごくたまに、映画の冒頭(ファースト・シーン)を観ただけで、この映画が既に傑作であると確信することがある。まさにこの作品はその一つである。まるでギリシャ悲劇を見ているかのような息詰まる緊張感と、現実の戦争がもたらす悲劇、人間存在そのものの悲劇が重なり合い、50年代ポーランド映画の傑作、カワレロウィッチの「影」に似た本作は、激動のユーゴ情勢をドキュメンタリーのように描いておらず、複雑な構成で今のユーゴの情勢の複雑さに対応した傑作である。私はこの映画を時間の解体と再構成した運命に結ばれたラブ・ストーリーと言いたい〜

    本作はミルチョ・マンチェフスキが1994年に監督したもので、見事にベネチア国際映画祭最高賞の金獅子賞に輝いた名作がようやくキングレコードから国内初BD化され、購入して久々に鑑賞したけどすばらしい。マケドニア、フランス、イギリスの共同で製作され、監督の故郷であるマケドニア共和国と英国を舞台に撮られる3つのチャプターから成る物語で、アカデミー賞にもノミネートされた映画である。本作はデビュー作にしてベネチアで10冠に輝いたもので、94年のベネチア映画祭のフィナーレでは観衆の拍手は1人の若き映画作家のためにあったと言われるほど大喝采だった。金獅子賞(グランプリ)以下10部門を独占した大傑作が本作である。

    確か当時、処女作にして既にクラシックと評判があり、ゴダールやトリュフォー、ポランスキーのデビュー作を思い出すなど各国のプレスは最大級の賞賛を送り、星取りではフルマークを与えてこの新しい才能を褒めた讃えていたことを思い出す。そしてベネチアの熱狂は、この映画が続いて出品された各国の映画祭にも感染した。本作はサンパウロ、ストックホルム、プエルトリコの各映画祭でも主要部門で受賞、さらには先ほども言ったが94年度のアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされたと言う快挙を成し遂げている(ちなみに、当時のオスカー受賞した外国語映画はロシア映画のにニキータ・ミハルコフ監督の太陽に灼かれてである)。

    この作品は今ではもはや珍しくは無いが、やがてメビウスの輪となる3部構成になっている。この作品は3つのラブストーリーで構成されていて、それらは、舞台をマケドニアからロンドンへ、さらにもう一度マケドニアへと巧みに移動し、登場人物を交差させ、微妙につながりながら最後には映画全体がメビウスの輪の如くねじれた循環構造になっていることを呈示する。マケドニアの美しい山岳地帯。まるで歴史に取り残されたかのようにたたずむ修道院で、沈黙の行を守る若い僧が主人公となる第一部(言葉)。そしてマケドニア人と敵対するアルバニア人の娘がこの修道院に逃れ、若い僧と恋に落ちるが、民族も宗教も言葉も異なる2人の恋の行方は悲劇を予感させる第二部(顔)で舞台は一変し、ロンドンへ。

    フォト・エージェンシーで働く女性編集者の気持ちは、マケドニア人で世界的に有名なカメラマンの愛人、愛してはいるが退屈な夫との間で揺れている。彼女がこのジレンマを脱する前に、思いがけない事件が起こると言う流れで、この第二部で観客は、第一部の登場人物が思わぬ形で登場しているのに気づいていくのだ。そして第三部(写真)では、今度は先のマケドニア人カメラマンが主人公に転じる。彼は名声も仕事も捨てて故郷の村へと帰るが、そこは民族紛争で荒れ果て、皆人間らしさを失っている。昔好きだった女性を尋ねてみるが、彼女は今や敵対関係にあるアルバニア人である。これ以上言うと大きなネタバレになるため伏せておくが、こう言う流れで周到に用意された第三部のラストシーンで、物語は映画のファーストシーンへ鮮やかに舞い戻るのだ。ここで我々はこの3つのストーリーが、実は1つの循環したストーリーであることを知る。

    しかもそれは単純に一回りしたわけではなく、時は死なず、しかし巡る事はない…と言う劇中のセリフの意味をわれわれはかみしめることになる様な演出設定が施されている。そもそもマケドニアの歴史的背景は、1991年11月に旧ユーゴからの独立宣言をした現在のマケドニア共和国は、この映画でも国連軍の車が行き交う様子が垣間見られたスコピエを首都としているが、マケドニアと聞くとヘレニズム期のアレクサンドロス大王を思い浮かべる人が多いとされている。マケドニアは歴史的な地名であり、アレクサンドロス大王の古代マケドニア王国に由来しているそうだ。ところが、このマケドニアに6、7世紀にかけて移動してきたのが南スラブ系の人々であり、彼らがマケドニア人を形成した。だから、マケドニア共和国のマケドニア人は南スラブ系の人々なのである。

    マケドニア共和国は人口約200万の小国である事は調べればわかることだが、この映画で描かれているマケドニア人とアルバニア人との民族対立が最大の国内問題となっていることをこの映画を通して知れた。94年6月から7月にかけて実施され、11月に公表された国勢調査の結果による、マケドニア人の比率は67%、アルバニア人の比率は23%である。旧ユーゴ時代の91年の国勢調査と比べて、アルバニア人は1%ほどしか増加していないことになる。ところが、アルバニア人側の主張によると、彼らの比率は40%を超えていると言う。アルバニア人の自然増加率が著しく高いことに加え、92年から93年にかけて、経済状況の悪化とした隣接するアルバニアやセルビアのコソボから大量のアルバニア人が流入したのである。不法流入が多いので、当然のことながら、彼らの数は公式の国勢調査に現れてこないのだ。職を求めてマケドニアに流入したものの、マケドニアの経済も新ユーゴ(セルビアとモンテネグロから構成)への制裁の影響受けて振るわず、アルバニア人の職場が極端に限られる状態が続いたそうだ。

    こうした状況の中で、マケドニア人とアルバニア人との対立が先鋭化していく。マケドニア民族主義に基づく政党(内部マケドニア革命組織VMRO)が再建される一方、アルバニア人政党も民族主義をあおったみたいだ。不安定な情勢下で、両者の小競り合いが続いていたようだ。映画では共存していた両者がそれぞれの民族主義を募らせ、次第に対立を深めていく様子がよく描かれている。ボスニア内戦のマケドニアへの転化が危惧され、93年6月には、国連安保理が初めて国連軍の予防展開を決議したそうだ。アメリカを中心とする部隊がマケドニアに派遣され、当時まで紛争の防止に当たっているようだ。マケドニアはこうした国内問題に加えて、もう一つ大きな問題を抱えていた。それは隣国ギリシアとの関係である。19世紀末、帝国主義の時代に形成された東方問題の中心がバルカンのマケドニア問題であったそうだ。

    民族形成の遅れたマケドニアの領有を主張して、隣国のギリシャ、セルビア、ブルガリアが対立したそうだ。1913年の第二次バルカン戦争の結果、マケドニアはこの3国によって分割されてしまう。第一次大戦後、セルビアは旧ユーゴを構成することになるため、マケドニアの1部は旧ユーゴ領となり、第二次大戦後に社会主義体制のもとでー共和国となったのだ。マケドニア共和国の独立に対して、かつてのマケドニア問題の当事国ギリシャは神経をとがらせていたそうだ。先に述べたマケドニア人の民族政党がマケドニアの統一を掲げて活動していたからだ。ギリシャはマケドニアの領土的野心を警戒しつつ、表面的にはマケドニアと言う国名はギリシャ固有のものとの理由から、国家承認を拒否してきたそうだ。94年2月には、ギリシャが内陸国マケドニアにとって致命的とも言える強固な制裁処置を行ったため、両国の関係は地獄のようになったみたいだ。

    しかし95年の9月に、国連の仲介によって1年半ぶりに2つの国の関係が正常化していたそうだ。マケドニアはギリシャが要求していた、国旗に使用している古代マケドニア王朝の紋章を外すこと、マケドニア憲法が既存の国境の変更を要求していないことを確認し合うことで合意したみたいだ。バルカンの不安定要因が1つ除去されたと思われたが、10月初めにギリシャとの正常化を推進したマケドニアの大統領が反対勢力のテロにあい負傷を負う事件が生じた。マケドニアの不安定な政治状況は当時続いているものの、バルカンの情勢は大きく変わりつつあるようだ。12月にはボスニア和平協定が調印され、旧ユーゴ内戦は和平に向けて新たな一方を踏み出した。これを契機に、ボスニア内戦から改めて教訓を汲み取ることができるなら、マケドニアにはアルバニア人問題を自力で解決する可能性がまだ十分に残されているように思われると東京大学教養学部教授の柴氏が言っていた。


    さて前置きはこの辺にして物語の説明をしていきたいと思う。さて、物語は(プロローグ)荒涼としたマケドニアの丘陵、若き修道僧キリルがトマトをもいでいる。老僧が雨が近いことを告げる。キリルは沈黙の修行中で、言葉を返す事はできない。空は抜ける青さだが遠くに雷鳴が聞こえる。老僧がつぶやく。「時は死なず、巡ることなし」…

    第一部(言葉)

    夜、キリルが修道院の自室で休もうとすると、ベッドに人の気配があった。アルバニア人の娘だった。何者かに追われて逃げ込んできたらしい。娘はザミラと名乗り、匿ってくれと乞う。キリルは無言のままこれを受け入れる。翌日、キリルたちが教会で祈っている、このアルバニア娘を追って銃を持ったマケドニア人たちが入ってきた。彼女は彼らの仲間を殺して逃げたらしい。修道院内で捜査が始まるが、彼女は見つからない。夜中、ザミラがキリルの部屋に戻ってきた。2人は民族も言葉も宗教も違うが、いつしか恋に落ちていた。しかし、朝になってザミラが隠れていることが主教の知るところとなる。主に背いたキリルは僧服を脱ぎ、ザミラとともに追っての目を逃れて修道院を後にする。夜通し歩き、丘の上で休んでいる、そこへザミラの祖父以下アルバニア人のー団が現れた。彼らはザミラを激しく叱責し、キリルにはすぐに立ち去るよう命じる。ザミラはキリルの後を追おうとして、兄に撃たれてしまう。

    第二部(顔)

    ロンドンのフォト・エージェンシーのオフィス。アンは医師からの電話で、自分が妊娠したことを知らされる。動揺する彼女の前に、ボスニアに行っているはずの愛人アレックスが舞い戻る。彼はピューリッツァー賞受賞したほどの戦争カメラマンだが、突然、仕事を辞めてマケドニアの故郷に帰ると告げる。出発は今夜。アンは一緒にマケドニアで暮らそうと誘われ、空港間を渡されるが、すぐには決心がつかない。退屈だが安心できる夫ニックのこともまだ愛しているのだ。その夜、アンはニックと約束していたレストランへ出かけた。自分の子を妊娠していると聞いてニックは喜ぶが、彼女の気持ちは夫とアレックスの間で揺れている。店で客とウェイターがもめている。彼女はついに離婚を切り出すが、ニックの悲しむ顔を見てさらに心が揺れる。そこへ、さっきウェイターと揉めていた男が戻ってきて店中にピストルを撃ちまくる。ニックは死んだ。アンは血まみれになったニックの顔を見て茫然となる。

    第三部(写真)

    アレックスは16年ぶりにマケドニアに帰ってきた。首都スコピエには国連軍の装甲車が走っている。バスに乗り換えて故郷の村へと向かう。隣席の男が話しかけてくる。「なぜ、こんな時に戻った?」荒れ果てた我が家にたどりついて、一晩眠り、昔の友人や親類と再会。心和むひとときだが、彼は会話の端々から、かつてはなかった異民族に対する敵愾心が村人の中に根付いてしまっていることを知る。幼なじみの女性ハナの消息を尋ねてみると、「あの女の事は忘れろ、アルバニア人だ」との答えが返える。それでもアレックスはハナに会いに行った。イスラム寺院の尖塔が見えるアルバニア人居住区、拳銃を持った若者に行き先と目的を問い正されるが、ハナの父親がアレックスを覚えていて二人は再会を果たす。

    しかし、大げさな抱擁も感動の涙もそこでは許されない。もはや16年前とは世間の状況が違う。ハナの息子はマケドニア人であるアレックスの訪問に不快感を隠そうとしない。そして事件は起きた。アレックスの従弟のボヤンが殺されたのだ。男たちは拳銃を手に復讐に立ち上がった。殺したのはハナの娘、ザミラだった。その夜、アレックスのもとにハナが訪れ、娘を助けてと頼む。ザミラはアレックスの従兄にに捕らえられていた。煩悶するアレックス。戦争を撮り続けるうちに感覚が麻痺し、無意識に殺人に加担してしまった苦い経験が蘇る。彼はザミラを助け出す決心をした。しかし従兄たちから見ればそれは裏切りの行為。2人に向けて銃弾が放たれる。アレックスは撃たれ、彼のおかげでザミラは逃げ延びる。彼女は丘の上の修道院へと向かう。その畑では若い僧がトマトをもいでいた。彼を迎えに来た老僧が雨が近いことを告げる…とがっつり説明するとこんな感じで、卓越した映像センスと確かな演出力、さらに自らが描き下ろした脚本を完璧に映像化した作品である。

    それにしても映画の冒頭から描かれる、荒涼としたマケドニアの景観の美しさは目を見張るほどである。風光明媚な大自然の中で、空の色だったり乾いた大地だったり連なる山々だったり、中世さながらのマケドニア正教の教会だったり、イコン、修道院とまさに言葉に値する景観の数々は脳裏に焼きつくものがある。どうやら映画のロケの大半を行ったのはマケドニアで、監督の祖国であり、世界の注目を集めている旧ユーゴスラビア諸国の南端に位置する小国である。監督はこの映画の中で、現在この国や旧ユーゴ諸国が、ひいてはヨーロッパ全体が抱える民族問題を浮き彫りにし、人々が争うことの愚かさを訴えていると思われる。この映画の「ビフォア・ザ・レイン」について彼は、空が爆発の可能性をはらんでいるときの、人々が静まり返っているときの、悲劇または浄化を待つ強い期待の感情を表していると語っている。

    いや〜、数十年ぶりに見返したけどやっぱり圧倒的な存在感をみせるキャスティングは素晴らしいし、全編を通じてエスニックな旋律が印象的なスコアのマケドニアの人気グループでアナスタシアが担当しているところも激アツであることながらに、まずはマケドニアとイギリスとフランス三カ国の合作となる本作に6カ国以上から集まっている多様性+役者の1人である旧ユーゴの俳優レード・セルベッジアは、クロアチア生まれのセルビア人と言う複雑な民族背景を持っているから、この映画にはうってつけなのかもしれない。とにかくこの映画はキャストが充実している。なんだろう、私自身、ごくまれに映画のファースト・ショット、いわゆる冒頭の場面を見ただけでこの映画が既に傑作であると確信してしまうことがあるのだが、この映画もまさにそうである。先程言ったアナスタシアの旋律が流れる中、トマトを手で取るクローズアップから始まるこの物語の美しい景観のカットバックを見てしまったら、これはすでに傑作だとついつい思ってしまう。大抵自分がそう思った作品はほとんど自分の中の傑作に当てはまることが多い。

    まず、キリル(男)のベットに逃げてきたザミラ(女)の夜の出会い、そこから女を探しに来た連中が教会を探るまでの緊張感が凄い。それこら屋根の上にいる猫を拳銃で何発も撃ち込んで殺す場面は惨たらしい。そんで、かくまっていることがばれて修道院を追い出されてしまうのだが、その夜の海の風景と満月が映り込む映像は音楽と共に幻想的で非常に美しい。そして壮大である。そして事件が起こって第二部に突入するときに流れてくるLene LovichのHomeがまたかっこいい。当時のマドンナの写真なども懐かしく感じる。そして第三部では独特の渇いた土地柄で巻き起こる憎しみの対立劇が強烈な印象残す。これは製作側による主に監督だが、祖国による戦争であるが戦争ではない傷ついた人々の物語を作りたかったと思える物語である。

    ザミラ役の少女がまたすごくいい味を出してくれている。男の子に見間違えるほど短髪で、第ー部から衝撃的な結末を迎える彼女の〇〇には驚かされるのと、第二部がエピローグとプロローグになっている重要性、しかしながらその真ん中の第二部に出てくるモノクロの写真を捉えた場面でザミラとキリルが写った写真は果たして誰が撮影したものなのか、そこが気がかりではある…。それにしても圧倒される風景は素晴らしくてマケドニアの岩肌がむき出しになった丘も遠くから近づいてくる雷鳴も重低音で音が響き渡り、雨雲の空はまた神秘的でまるでディズニーの世界に入り込んだかのような美しさがある。その中に慈悲の無き非情さが溶け合っている。誠にこの時代は人間たちが生きるのに厳しい状況下である。

    そういえば候孝賢の作品でも亀が出てくるのだが、この作品も子供たちが2匹の亀を戦わせてその後に火をつけて焼き殺してしまう残酷な場面があるが、「風櫃の少年」で子供たちが鶏の頭をちょんぎってしまう場面が一瞬頭をよぎった。ところで、マケドニアにはあのルネサンス以前のフレスコのある古い僧院ってのは今も残っているのだろうか…。とても印象的でシンボリックな存在感を放っていた。この作品の画期的なところは、やはり無垢と汚れを対照的に描いている第一部だろう。キリルの沈黙と彼の沈黙からくる人柄の良さが無垢を映し出し、マケドニア人の農夫を刺殺してしまうアルバニア人の少女が汚れを映すのである。この美しい風景の中に凡人からすれば非日常的な残酷さが写し出されており、そこへ緊張感を持って展開される3つのエピソードが恐ろしいほど佳境に向けて加速するのである。

    この映画は詩的なイメージで描かれている分、政治色が少なく感じる。もともと旧ユーゴのマケドニア人とアルバニア人の民族対立を直接的に描いているにもかかわらずそう感じないのだ。日常の中に、突如戦争が入り込んでしまうような不安と恐怖がこの映画から感じ取れる。しかしこの映画のメッセージは怒りや憎悪を増幅させるのではなく、悲しみと祈りにフォーカスしている。確か評論家の川本三郎氏がいっていたのだが、監督はこの3部構成を、旧ユーゴの先輩監督アレキサンダー・ぺトロヴィクの「三」(65年作品)と言う、第二次世界大戦の過酷な体験を3部構成で描いた映画から学んだと言っていた事を記憶する。物語が3つに分割され、それが相互に複雑に絡み合うことで、極限状況の不条理性が高まっていき、通常のリアリズムの手法で作られた政治映画とは違う、詩的緊張感を持った寓話と形が高められていく…。

    本作は登場してくる人物たちがどちらかの側につかなくてはならないと言う選択肢しかないことに気づく。いわば、傍観者になる事は決して許されておらず、ヘイトの中で行われるものに第三者と言う立場は一切タブー視されているのだ。どっちかにつけばどっちかに狙われると言う極限状況下の中で、キリルは汚れていてしまうのだ。無垢だった彼はマケドニア人に追われるだけでなく、アルバニア人の身内からも追われ、ついに〇〇を目撃してしまうのである。この残酷さが先ほども言ったギリシャ悲劇を見ているかのような場面でもある。結局沈黙を誓っている彼だけではなく、この三部作の主人公と言える写真家のアレックスもまた第三者でいる事は許されていなかったのだ。

    そしてこの映画私的にとてもイライラする事柄があるのだが、拳銃で撃つぞと脅しをかけるのだが、実際にその拳銃を撃ってしまうと言うこの無知蒙昧な愚かさに苛立ちを隠せないのだ。撃てば死んでしまう、死んでしまってから狼狽したって意味がないと思うのだが、その点この作品は非常に個人的にイライラした。ところが、そんな緊張状況の中では、中立は許されないと言うことがはっきりと浮き彫りになってくる。どちらかの側にたたなければならないし、手を汚さなければ生きてはいけない。それを拒否するためには自ら死を選ぶしかないと言うメッセージ性が伝わってくる。それに主人公のアレックスが16年ぶりに故郷であるマケドニアに帰還して、彼の目に映ったのはマケドニア人とアルバニア人がヘイトの抗争を続けていると言う地獄絵図であり、字幕でよく出ていた"目には目を"と言う言葉が意味する復讐が繰り返されているのだ。

    ほんと、この作品には驚かされる。とにかく救いようがない映画である。だが映画タイトルを理解すれば、クライマックスの雨がこの犠牲者の救いになっている事は言うまでもないだろう。監督の伝えたいメッセージが非常に伝わるのと、皮肉にも第1話が沈黙で始まるにもかかわらず第一部のタイトルが「言葉」と言うところである。沈黙で始まりそして沈黙で終わる。日本でも座禅と言う言葉があるように、キリスト教に限らずどの宗教にも修行のようなものがあり、その中に必ず沈黙に似たようなものがある。瞑想しかり…。そういった孤独の中を生活すると言う気持ちはどんなものなのか自分にはわからない。それもそのはずだろう、人間と共にしているのにもかかわらず、ひたすら沈黙を守り続ける行為。耳は聞いているのに、目は見えているのに、それらの情報は頭の中できちんと理解しているのに、それについて話すことができないのである。

    どちらかと言えば独りでいる方が快適で楽だと感じる自分でさえ、周りに友人などがいる中で沈黙する事はかなり窮屈で辛いことである。だがそれが修行の名目であり、習得しなくてはいけないものなのだろう。ちなみにそのキリル役のグレゴワール・コランがハリウッド俳優のアダム・ドライバーに似ていると勝手ながらに思うのである。それと話は変わるが、少女が着ていた洋服がアディダスだったのがほんの少し文明を感じたのだ。もし彼女が民族衣装的な服を着ていたら全くもって文明を感じ取れないマケドニアの風土が、さらに古代を感じさせたと思う。とりわけ民族戦争を理解するのはなかなか難しいことであり、様々な映画を見て一歩ずつ理解していくしかない。それはとても疲労感のあるものだと思うが、地域ごとに異なる民族紛争と言うものがどのように解決するかをこの映画はほんの少し希望を投げかけているように感じた。平和が成立して初めて迎える元旦を彼らにも味わってほしい。

    マケドニアって、山々が連なるバルカン半島にあるのだが、平野が続いているのが特徴なのかもしれない。今回の舞台がマケドニアの西部、アルバニアとの国境に位置するオフリッド湖畔にあるマケドニア正教会の修道院を舞台にしていて、輝く湖と美しい夜景の満天の星が降り注ぐ圧倒的な景観の映像はやはり記憶に残る。ここで少しマケドニアの歴史的背景を東京大学教育学部教授の柴宣弘氏が解説している言葉から読み解いていきたいと思う。どうやらそのオフリッド湖は旧ユーゴスラビア時代に六共和国の1つでマケドニア共和国に属するリゾート地として有名だったそうだ。中世にビザンチン帝国がこの地方を支配下に置いていた時期に、コンスタンチノープル(後のイスタンブル)の東方正教会の大主教座が置かれたため、正教会の修道院がいくつも建設されたらしい。オフリッド湖の修道院はフレスコ画(壁画)やイコン(聖像画)の宝庫であり、加えてオフフリット湖で取れる鱒の料理も観光客を惹きつける大きな要素とのことだ。

    さて、話は音楽に移るのだが、スコピエを拠点とするマケドニアのグループであるアナスタシアと言う伝統的なビザンチン音楽から東方正教会の宗教音楽、マケドニア民族音楽までを彩り入れた印象的な曲調、ガヴァル(横笛)やガイダ(バルカン式バグパイプ)、タパン(太鼓)といった伝統楽器を使った音楽作りで人気を集めているその面々の音楽がやはりとてもこの映画に力を与えていると思う。そしてそれぞれの役者にも言及したいのだが、まずザミラを演じた18歳のマケドニアの学生で、これが映画初出演のラビナ・ミテフスナなのだが、彼女は監督に見られ、未経験を補うために休学してマケドニアやセルビア、コソボのアルバニア人家庭に滞在して役作りをしたそうだ。そして見事なデビューを飾ったのだ。ちなみに彼女が好きな監督はピーター・グリーナウェイと言っていて非常に嬉しかった。それから漫画も好きとのことだ。

    そしてアレックスを演じたセルベッジアは本作の演技で、ベネチア映画祭主演男優賞受賞している。そしてキリル役のコランはフランスの若手スターとされており、趣味でチェロが得意で脚本にも手を染めていると言う有望株だったそうだ。アン役のカトリン・カートリッジは、イギリスの女優で、「秘密と嘘」でパルムドールを受賞したマイク・リー監督の「ネイキッド」でソフィー役を演じて批評家たちから喝采浴びていたのは有名だろう。長々とレビューしたが、この映画は傑作なのでまだ見てない方はぜひお勧めする。この映画を見るにあたって、マケドニアのスコピエがどこにあるのか地図を開いて確かめるとより良いだろう。左上にクロアチアその下にボスニア・ヘルツェゴビナその中央に新ユーゴスラビアその右上にルーマニアその下にブルガリア、そのまま黒海があり下にトルコ、左にエーゲ海がありギリシャ、アルバニア、アドリア海そして左にイタリアが見えてくる。


    最後に余談なのだが、この作品の監督は小さい頃はアメリカンコミックに夢中になり、ターザン映画や007映画、マカロニウェスタンなどが大好きだったそうで、15歳の時にトルストイの戦争と平和を読んだりしたそうだが、彼が将来映画を作りたいと言うきっかけを作ったのは、黒澤明の羅生門だったそうだ。彼はこの作品でいちど来日しているのだが、当時インタビューを行った場所が配給した大映のオフィスだったようだが、その部屋のガラス棚にはかつて黒澤明が受賞したベネチア映画祭のグランプリ像、金獅子賞が飾られていたそうだ。黒澤の作品が受賞してからこの作品が金獅子賞を手にするまで43年を経ているのだ。ちなみにこの映画の成功によってハリウッドからお誘いが来た監督は、ヒッチコックの映画のリメイクだったり、ジェームズ・ディーンの伝記だったりといくつも話がきたが、中でもロバート・レッドフォードが制作する「ダスト」の監督も頼まれたみたいで、結局彼は「ダスト」を後に撮っている。






  • 3.3

    えなさん2021/10/15 20:58

    ループもの…なのか?
    ユーゴ問題について知識がない私には少し難しい話だった。
    マケドニアの風景は綺麗。

  • 3.3

    Muttuさん2021/10/07 10:52

    マケドニアってドコ?状態の浅い知識なので、民族間で繰り返される愚かな争いを描くこの映画を理解するのには無理があった。
    時系列は逢えてメビウスの輪のごとくねじれて描かれ、死んだ人が別のシーンで生き返ったりする事で、問題の普遍性を表現していたのかもしれない

  • 4.3

    Riyさん2021/09/10 03:58

    北マケドニア出身の監督ミルチョ・マンチェフスキによる途轍も無い硬質な作品。映像の素晴らしさは映画として比類が無いのでは。
    宗教と民族と、重いテーマを重く描いて、それでもあくまでも醜悪にそして美しく、人間の生き様を追う。
    1994年の作品、未だ未だこの地の争いが現実の時代でしたね。製作陣もキャストたちも素晴らしい勇気だったと推察します。
    村で自転車に乗るシーン、「雨に濡れても」を口ずさんでいて、唯一監督の計らいでしょう、ホッとする場面でした。
    何も知らずに観始めて、意表を突かれた映画の一作。

  • 3.8

    chuchuyamaさん2021/09/01 14:13

    淡々としてるけどグッとくるものがある。 押し出しは強くないけど込められてるものがあるからだと思う。マケドニアという見慣れぬ国の風景も含め興味深い一本だった。

  • 4.1

    jammingさん2021/08/30 22:25

    息をのむほど
    風景が美しすぎて
    血を流すことが
    世界一似合わない場所だと思った。


    三部作の最初と最後が
    つながっているのは
    終わらないことを
    意味しているんでしょうか。。

  • 4.0

    masahitotenmaさん2021/08/16 08:48

    ミルチョ・マンチェフスキ監督が、彼の故郷であるマケドニアの民族対立をテーマとして撮った過酷な物語。
    音楽はアナスタシア
    原題:Before the Rain, Pred dozhdot (1994)

    全体は、マケドニアとロンドンを結び、時間軸が交錯する3つのパートからなる。

    「第1部 言葉」(Part 1. Words)
    マケドニアの修道院(ギリシャ正教)で2年にわたり沈黙の修行を続けている若い修道僧キリル(グレゴワール・コラン)は、修道院に逃げ込んできたアルバニア人(イスラム教徒)の少女ザミラ(ラビナ・ミテフスカ)を匿うが、マケドニア人の民兵が修道院に侵入してくる……

    「第2部 顔」(Part 2. Faces)
    ロンドンの雑誌社に勤めるアン(カトリン・カートリッジ)は夫ニック(ジェイ・ヴィラーズ)を愛してはいるが関係がうまくいかず、マケドニア出身の写真家(ピュリッツァー賞受賞者)アレックス/アレキサンダー・キリコフ(ラデ・シェルベッジア)に魅かれ、悩みながらも離婚話を切り出す。その最中店で事件が起こる……

    「第3部 写真」(Part 3. Pictures)
    名声も仕事も捨て16年振りにの故郷マケドニアに帰国したアレキサンダーだが、村ではマケドニア人(ギリシャ正教)とアルバニア人(ムスリム)が対立し、村は分裂状態になっていた。
    かつての恋人(アルバニア人)から娘ザミラを助けてほしいと言われ……

    物語の重要人物3人の死とその関係を見逃さないようにしたい。

    3話のラストシーンが第1話のファーストシーンに、メビウスの輪のように繋がる構成になっており、民族(宗教)紛争、殺戮は永遠に続いていくことを示している。

    「雨になりそうだな。時は待ってくれぬ。流れるのみだ」

  • 4.0

    kazマックスグローバーレッドさん2021/08/13 12:25

    再鑑賞。『パルプ・フィクション』を劇場で見てから似たような構成の映画があること知って本作を見たのが20年以上前のこと。『パルプ・フィクション』がカンヌ映画祭パルム・ドールで、『ビフォア・ザ・レイン』がヴェネチア映画祭金獅子賞と1994年の2大映画祭をそれぞれが受賞。今では時系列を崩したストーリー構成は当たり前だけどその革命的な年が94年だったかもしれない。

    民族紛争中のマケドニアを舞台にした3話構成のオムニバスでパルプ・フィクションと同様に登場人物が重複し時間軸のズレが生じてくる。

    第一部「言葉」
    マケドニアで何者かに追われて修道院へ逃げてくるアルバニア人の少女ザラミと彼女を匿う若い僧侶キリル。

    第二部「顔」
    ロンドンで旦那との関係が崩れている雑誌編集者アンと紛争地ボスニアから帰ってきたマケドニア出身の写真家アレックス。

    第三部「写真」
    マケドニアに帰郷したアレックスが16年ぶりに親族と再会。幼なじみのアルバニア人女性に会いに行く。

    巡り巡る3話の物語が終わりのない民族紛争とリンクしていく。時は死なず巡ることなし(Time Never Dies The Circle is Not Round)とは皮肉な言葉。

    ユーゴスラビア紛争の真っ只中に作られた映画で、民族が違うだけで一つの村が分裂して隣人同士が殺し合う世界。紛争地域であろうとなかろうと物騒な世の中には変わりない。

  • 4.2

    七色星団さん2021/06/04 13:21

    美しい風景、そして銃声と硝煙。共存するはずの無いものが怒りと憎しみを介して共存することが日常となったマケドニアでの民族紛争の果ての悲劇を描いた本作。
    三部構成となった物語が絡み合いつつ、エンディングがオープニングへと繋がる円環構造を形成していて、これは映画の物語として繋がっているというだけに留まらず、同じ過ちを繰り返してきた人間そのものに、その罪を突き付けて来てくるような感じ。

    中立。
    よく耳にする言葉ではあるけど、紛争の真っ只中に足を踏み入れた者にそんな逃げは許されない。
    例えその地に縁もゆかりもない場所から来た者であっても、中途半端な介在は許されないというか、つまり強制的に”お前はどちら側の人間なんだ?”という踏み絵を踏まされるのが見てて凄く怖かった。
    だって、昨日まで友人だったのに、ある日突然銃を構えて殺し合う敵同士になるなんて、今の日本に住んでるとまるでピンとこない話。
    でも、世界ではそれが起こっているんだよなぁ。

    ツタヤのレンタルに並んでて思わず手に取って、久し振りに見たビフォア・ザ・レインはやはり悲しい。残酷な物語だった。
    対して音楽は美しい。
    この映画のサントラは今でも聴いてしまうほど好きで、確か当時のバラエティ番組のオープニングに使われるぐらい印象的な楽曲だったのたけど、アーティスト名であるアナスタシア名義の楽曲がApple Musicに引っかからないので、もうアーティスト活動はしていないのかな?
    残念。

  • 3.7

    鹿男の気持ちさん2021/06/02 23:39

    ミルチョマンチェスキーによる民族間の争いを描いた傑作。全編通して流れるアナスタシアの音楽も最高。監督はNYUの映画学科で教鞭とってる。また新作つくって

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    ※ニックネームに(エンタメナビ)の表示があるレビューは、2016年11月30日までに「楽天エンタメナビ」に投稿されたものを掲載しております。

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